賃金引上げ要請

安倍晋三首相が経済界に「業績が改善している企業には従業員の報酬引き上げをお願いしたい」と異例の要請を

繰り返している。 円安で輸出産業がせっかく潤っても、働く人の収入が増えなければ消費が伸びず、景気の本格

回復は期待できない。デフレ脱却で物価が上がると、かえってマイナスになる恐れもある。 理屈は誰でも分かるが、

賃金を決めるのは個別企業である。要請を直接受けて米倉弘昌経団連会長は「安倍首相には、その話を会員企業

に伝えると答えた」。長谷川閑史経済同友会代表幹事は「できるだけ前向きに受け止めて協力していこうと会員に

話すが、後は個々の企業の判断」と言う。 当然の反応だが、春の労使交渉に臨む経営側の指針として、経団連が

発表した今年の「経営労働政策委員会報告」は相変わらず慎重だ。「ベースアップを実施する余地はなく、賃金カーブ

の維持、あるいは定期昇給の実施の取り扱いが主要な論点になる」という。 業績の変動を「賞与・一時金に反映させる

企業側の方針は浸透している。主要な労働組合も、ベアをあきらめてボーナスを中心に交渉するのが多い。

ボーナスなら、利益が多く出たらはずみ、減ったら削れる。配当に似た利益処分の考え方である。自動車や電機業界

などの大手企業の労使間では、半ば常識になっているが、思考停止に陥っていないだろうか。 経済全体をマクロ的に

見れば、雇用や賃金は生産活動や設備投資動向などに遅れて動く。やはり景気がよくなって、利益が上がり企業が

先行きに自信を持って設備投資を積極化すれば、人材の採用はおのずと増えて賃金も上がりだす。 デフレ経済から

抜け出して先行きが明るくなれば、「雇用の増大と給料の上昇が起きる」という米倉経団連会長の論理はマクロ的には

正しい。しかし個々の企業の場合は、それにただ右にならえをしていれば、よいわけではない。 最近、デフレなれして

韓国や中国の企業に追い上げられて、すっかり弱気になったのだろうか。もうからないから賃金を抑制するという縮小均衡

の考え方が、産業界を広く覆っている。 バブル経済崩壊の影響が色濃く出だした1992年の春季交渉では、違っていた。

ベアゼロ論の日経連(後に経団連と合併)に、「日本の労働分配率は低い」と批判するソニーの盛田昭夫会長をはじめ

反発する経営者が少なくなかった。 賃金は高いに越したことはない。古くはフォード・モーターの創業者、

ヘンリー・フォードの逸話が知られている。賃金を一気に倍以上に引きあげて労働者の購買力を高め、自社の業績に

跳ね返らせた。 合理的なルールによって上がる賃金は、企業の活力を高めるうえで有用なテコになる。高賃金、高生産性

こそ企業本来のあり方で、それを実現するために、戦略的思考を巡らすのが経営者の仕事である。 ボーナスによるとはいえ、

2013年度から従業員の年収引き上げを率先して決めたローソンの新浪剛史社長は自信があるのだろう。低い賃金水準は

経営能力の低さを示す。賃金デフレに頼らぬ多様な戦略を、経営者は競うべきである。

日本経済新聞