2016年 10月

「106万円」社会保険料

「106万円」社会保険料

日本経済新聞 

 103万円と130万円。主婦の多くは世帯収入が減らないように年収を自主規制しながら働いている。このうち「130万円の壁」の原因となっていた社会保険の加入条件が10月に広がった。新たな目安は年収106万円。法制度が作り出す年収の壁に翻弄される、働く主婦の行方を2回にわたって追う。

 「現在年収120万円。私はどうすれば良いのですか?」。日本FP協会(東京・港)の無料電話相談に主婦の問い合わせが相次ぐ。相談員を務める上級ファイナンシャルプランナー(CFP認定者)の鈴木暁子さんは「手取りが減るのか変わらないのか。制度変更の影響を尋ねてくる」と話す。

 夫がサラリーマンの場合、従来は年収130万円未満ならば妻は夫の扶養者となり、社会保険料を払わずに済んだ。そのため130万円を超えないように就業調整する妻が多く、「130万円の壁」と呼ばれていた。今回の改定は、この壁を崩し、主婦の就労を促して社会保険料を負担してもらう狙いだ。

 「今年7月から1日8時間、週5日働くように見直した」と損害保険ジャパン日本興亜(東京・新宿)のパート社員、田中幸恵さん(42)は話す。大学を卒業して保険会社に就職したが、夫の転勤に伴って退職した。その後は長男と長女の子育てを優先。2012年に再就職してからは、年収を130万円未満にするために1日の勤務時間と毎月の日数を抑えていた。
 従来と同じ働き方だと社会保険料を払わなくてはならない。「どうせ払うことになるなら、年収を気にするのはやめた」。会社の後押しもあり、責任の重い仕事を任されるようになり、やりがいも高まった。
 政府試算では、今回の改定で新たに25万人が社会保険の適用対象になる。ただ田中さんのように働き方を積極的に見直す主婦ばかりではない。

 人材派遣・紹介会社ビースタイル(東京・新宿)が9月に実施した調査(パート雇用者ら799人が回答)によると、「今より年収を上げて扶養枠を外す」は19・5%で、「年収を下げて扶養枠内に収める」は39・8%と大差がついた。「稼いだ分を保険料で取られては働き損」などの理由からだ。政府の思惑に反して、制度改定は主婦の就労抑制も招いている。

 主婦パートを多数雇用する会社は対応に追われている。勤務時間を増やすパートと減らすパートがほぼ均衡していれば職場は今まで通り回るが、減らすパートが多くなるとその分の仕事を補う人手が必要だ。イオンは「心配なのは12月。例年パート社員は年収を調整するために年末に向けて就業時間を調整する。社会保険の適用拡大が年末の就業調整にどう響くかが読めない」(広報担当)と話す。
 社会保険料は勤務先と雇用者が折半して負担する。パートがその対象となれば企業の社会保険料負担も増える。社会保険の適用拡大が国会で決まったのは12年。当時、企業の多くはパートの就業時間を短くし、社会保険の適用を免れる戦略を練っていた。
 

 だが企業の姿勢は変わった。パート活用に関するコンサルティング会社・働きかた研究所(東京・中央)代表取締役の平田未緒さんは「少子化で急速に人手不足感が高まった。社会保険料を負担してでもパートに活躍してほしいと考える企業が増えた。消極的にならず、追い風を生かす道も考えて」と助言する。

 これまで社会保険は一般的に週30時間以上働く人が加入対象だった。10月以降は別表のように条件が変わる。意外な盲点は(4)だ。CFPの鈴木暁子さんは「年収が106万円を超えていても、勤務先の従業員が500人以下なら対象外。収入に影響はない」と話す。

 鈴木さんの試算(東京都在住、40歳未満などを条件)では、社会保険の適用拡大で手取り減少額は年10万円を超える。130万円をわずかに下回る年収で働いてきたサラリーマンの妻の場合、従来とほぼ同額の手取り収入を得るためには年収150万円の働き方に変える必要がある。
 世帯収入で考える場合は、夫の勤務先の家族手当制度も加味する。支給条件を妻の年収103万円や130万円に定めている企業は多い。年収がこれらを上回ると、夫は家族手当をもらえなくなる。

 政府試算では、新たに社会保険の対象になる月収8万8千円の雇用者が年金保険料(月額8千円)を20年払えば、将来受け取る厚生年金が年額約11万6千円増える。鈴木さんは「目先の手取りだけでなく、長期的視野で生活設計を考えることも大切だ」と話す。

働く主婦壁は消えるか

 多くのパート主婦らは配偶者控除などの恩恵を受けるために、年収が103万円を超えないように働いている。この「103万円の壁」が崩壊する可能性が出てきた。労働力減少を背景に、主婦に就労を促進しようと政府が配偶者控除の見直しに着手した。人手不足に悩む企業も主婦の潜在力に期待する。社会からのラブコールに主婦は応えられるのか。

 「パートや派遣、契約社員。これまでいくつも仕事を変えてきたけれど、年収はいつも102万9000円と決めていた」。東京都の主婦(36)はこう話す。大学卒業後に商社に入社。8年勤めて結婚し退職した。現在は派遣社員として1日6時間週3日仕事に出ている。

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 「103万円の壁」を自身で設けてきたのは配偶者控除を意識していたから。年収が上限を超えそうになり、勤務先と交渉して給与の一部を交通費名目に切り替えてもらったこともある。でも、就業調整はこの秋でやめる。「今の勤務先は人手が足りず『もっと働いてほしい』と前から言われていた。国の動きを見ていると主婦として働き方をセーブし続けられそうにない。勤務時間・日数を増やしたいと勤務先に先日伝えた」

 10月の社会保険(厚生年金保険・健康保険)の適用拡大は主婦に就労を促す第1弾。二の矢、三の矢を政府はすでに準備する。9月15日、政府税制調査会で配偶者控除の見直し議論が始まった。27日には働き方改革実現会議がスタート。同じ仕事をしていたら非正規社員にも正社員と同じ賃金を払うという同一労働同一賃金の導入が検討される。実現すればパートらの時給アップが想定され、年収を低く抑えるのが難しくなる。

 企業も先手を打って動く。「勤務時間を延ばしませんか?」。首都圏・近畿圏でスーパーマーケットを運営するライフコーポレーションは今春以降、パートとの個別面談で直属上司が呼びかけた。対象は年収約106万以上130万円未満の約3600人。10月の制度改定で社会保険の加入義務が生じる主婦らだ。人事本部の大庭祐一担当課長は「週20時間働いていたパートは週24時間働かないと手取りが減る。ならば思い切って収入を増やす道もあると示したかった」と説明する。

 就労意欲を高める仕掛けも整えた。2015年にパートの職級と給与体系を見直し、実力に応じて昇給できるようにした。16年5月には転勤を伴わないエリア正社員制度を新設。家庭の事情を抱える主婦パートが正社員に転換しやすくするためだ。「このところ採用難が深刻。主婦パートが長く働き、キャリアアップしてもらえれば会社にもプラスになる」と大庭さん。要請に応えて約1200人が勤務時間を延ばした。

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 東京都は今秋から、仕事と子育て両立支援合同就職面接会「レディGO! Project」を開いていく。子育て中の主婦の再就職を支援する。9月20日に立川市で開催した同イベントには主婦ら約250人が集まり、求人中の企業16社の話に耳を傾けた。

 現在求職中の主婦(37)は14年に夫の転勤で正社員の仕事を辞めた。「子どもが幼いのでいきなりフルタイムは無理だけれど、103万円や130万円など制限して働くなんて意味がない」と各社の求人情報に目を通す。ただ参加者からは「働きたくとも保育園に入れない」(38歳、1児の母)、「夫に家事・育児の協力は期待できず、長時間は働けない」(36歳、2児の母)との嘆きも漏れる。

 「103万円の壁」や「130万円の壁」を法制度で切り崩しても、保育所整備や男性の家事・育児参加などが同時に進まないと主婦を追い詰めるだけだ。
 仕事内容も課題だ。企業勤務経験があり、能力の高い主婦は多い。ビースタイル(東京・新宿)しゅふJOB総研所長の川上敬太郎さんは「パートや派遣でもやりがいのある仕事を提供できれば、年収を気にせず働く主婦が増えるだろう」と指摘する。

配偶者控除 ついに見直し?
 配偶者控除は1961年にできた。配偶者の年収が103万円以下の場合、夫は所得税38万円、個人住民税33万円の所得控除が受けられる。夫が仕事に集中できるのも、家事・育児を担う妻の支えがあるからこそ。そんな内助の功に報いるための仕組みだ。ただ制度導入当時は専業主婦世帯が主流だったが、今や共働き世帯が多数派だ。世帯構造の変化に配偶者控除は取り残されている。

 政府・自民党は配偶者控除を見直す方針だ。狙いは主婦の就労促進。「103万円の壁」が働く主婦層の意識に浸透し、年収が増えないように勤務時間を抑制するケースが絶えない。共働き世帯の中では夫フルタイム・妻パートという組み合わせが多い。生産年齢人口の減少を補うためにもパート主婦の就業調整を減らしたい。年内にも内容を固めたい考えだ。

 ただ税制上の「103万円の壁」は実はすでにない。年収103万円を超えた段階で手取り収入が激減しないよう特別措置を講じているからだ。だが、配偶者手当制度を持つ企業の約6割が年収103万円を支給基準としており、多くの世帯で妻は年収を103万円に抑えている。税制改正と同時に、こうした企業への働き掛けも欠かせない。

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